土曜日。今日は夫の誕生日だった。
ちょうど彼の仕事も休みだったので、私たち夫婦は二人して街に繰り出した。
最近は私が、“不妊治療”にかかりっきりだったせいもあり、デートをする機会もなかったのだ。
だから、本当に久しぶりの感覚だった。あまりに久しぶりすぎて、まるで学生時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまった。
私は今日一日、ずっと夫の腕にしがみついていたような気がする。
二人で映画を見て、二人でご飯を食べて、二人で買い物をして──。
そして夜になって、何年かぶりにラブホテルなんかに泊まったりして……。
鏡張りの壁と天井。ガラス張りのお風呂とトイレ。大きな丸いベッドで、私たちは久しぶりに燃え盛った。
ここのところ先生の前でばかり乱れていた私は、夫の前でも女になることができて嬉しかった。
心のどこかでは、心配すらしていたのだ。先生のあんなセックスを体験してしまった今、夫とのセックスが物足りなくなるのではないか──なんて。
確かに、先生とのプレイほど激しくもいやらしくもなかったけれど、それでも私は愛する夫の存在をしっかりと確かめることができた。
満足だった。
正直、ほっとしたし、嬉しくもあった。
心身ともに、まだまだ大丈夫なんだと思えた。
本当にいい一日だった。彼と一緒に過ごせて、本当によかった。
心の底から、そう思えた。
二ラウンド目が終わって、私は夫に腕枕をしてもらいつつ彼の胸に頬を寄せていた。
二人で汗ばんだ身体を密着させ、まだ荒い呼吸のままで静かに会話をする。
「……こういうのもいいな。結婚してからこっち、ラブホテルなんて来てなかったけど……。すごく興奮したよ。なあ、また来週末もこうやってデートしないか?」
「うん……いいけど、でも、来週末だけはダメ……」
「どうして? 何か予定でもあった?」
「……あれ? 言ってなかったっけ。来週末は検査があるって……」
「ああ、そういえば何か言ってたな……。病院に泊まるんだっけ?」
「……うん。検査入院。ちょっと一泊だけね、してくるんだ……」
「そうかぁ、じゃあ仕方ないな。今のお前は不妊を治すことが一番の仕事だからな」
「……ごめんね」
いろいろな意味を込めた「ごめんね」だった。
が、彼はもちろんその意味には気付かない。
「いやあ、今のお前には病院の方が優先だからな。いいよ。それじゃあその次の週末でもいいし。不妊が治ったら、またいくらでもデートできるからそれを待ってもいいし」
「うん……」
夫とこんなにも肌をくっつけて抱き合っていても、心の中はちくちくと痛かった。
そう。検査入院なんてウソもいいところなのだ。
夫にはそう説明すればいいと先生に言われただけなのだから。
きっと私は来週末、夫には言えないほど変態的な性行為を強要されてしまうのだ。あの先生によって。
彼が満を持して私を泊まりに誘ったのだから……生易しいことで済ませてもらえるとは到底思えない。
先生の言葉を思い出す。
確かこんなことを言っていた。
「──知り合いが温泉旅館を経営していましてね。そこには立派な混浴温泉があるんですよ。大きなサウナもあって、そっちも混浴なんですよ。珍しいでしょう? 最近はがんばって治療をしても一向に症状に改善が見られませんので、もう少ししっかりと女性ホルモンを分泌できるようにしないといけませんから。土日と泊まりに行きますので、そのつもりでいてください。ああ、旦那さんには検査入院があるとでも言っておけばいいでしょう」
ギュンと子宮が疼いてしまう。
心臓がどきどきして、呼吸が荒くなる。
今日は一日夫といたし、ここに来てからもすでに二回愛し合ったというのに──。
それなのに、私の身体は先生の言葉を思い出して、自分が来週末にどうなってしまうのかを想像しただけで──たまらなく緊張してしまうのだった。
「ん? どうかしたか?」
心配そうな彼の表情。
が、もちろん本当のことを話す訳にはいかない。
「ううん、何でもない。大丈夫よ」
彼に抱かれながら、私はそう答えた。そう答えるしかなかった。
心の中に、どす黒く重い罪悪感を抱えたまま──。
旅館に向かうタクシーの後部座席に座り、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
視線の先では見慣れない景色が次々と後ろへ流れていく。曲がりくねった山道。
もう長いあいだ同じようなところを走っているが、いつになれば到着するのだろう。
そんな風に思っていると、ふいに太ももの上に手が置かれた。
「奥さん、緊張していらっしゃるんですか」
先生はすりすりと私の足をさすりながら聞いてくる。
事情を知らない運転手さんがいるのに、二人でいる時と変わらない声色だった。
あまり会話に乗ってはいけないと思う。
きっと先生は口にしてはいけないことまで平気で話してしまうだろうから。
私は「大丈夫です」とだけ答えて、彼と視線を合わせることもなく窓の外に目をやり続ける。
けれど先生は、そんな私の態度にも構わず一人で嬉しそうに喋り続けるのだった。
「今から行く温泉旅館はですね、私の行き付けなんですよ。不妊に悩む女性をもうかれこれ二十人以上は連れて来たのですが……。奥さん、ここに来た女性のうち、妊娠できるようになった人の割合はどれぐらいだかお分かりになりますか?」
私は「やめてください」という意味を込めて押し黙る。
が、彼はそれを「分かりません」と捉えてしまった様子だった。
「ふふ、いいですよ。教えて差し上げます。なんと……全員、です。ここに来た人たちは、全員妊娠できるようになったのですよ」
運転手さんがいる手前、目的地に着くまでは一言も話すまいと決めていた私だが、その事実には少なからず驚いてしまった。
思わず声を漏らして先生の顔を見てしまう。
「あなたも、きっとすぐに妊娠できるようになります」
胸を鷲掴みにされ、そのまま力強く揉みしだかれる。
「あっ……」
身をよじりながら前を向くと、バックミラー越しに運転手さんと目が合ってしまった。
奥さんと呼ばれ、不妊に悩んでいるといい、そして胸を揉まれて文句も言わない──一体私はどんな女だと思われているのか。
そしてそれからも、先生は私の身体をいじり続けるのだった。
胸を揉み、足を揉み、スカートの中に手を入れては唇を塞ぐ。
運転手さんが話し掛けづらそうに「着きましたよ」というその時まで。
「奥の宿」という温泉旅館は、その名の通り山奥のただ中にぽつんとあった。
部屋に案内された私は、先生が女将さんらしき人と話し込んでいるのを尻目に一人バルコニーに出た。
木目がきれいな手すりに両手でつかまり、ぐるりと首を回してみる。
周りには木々の緑が溢れていて、真下には清らかな渓流が流れている。
葉と葉のこすれ合う音、水の流れる音に混じって、鳥のさえずりも聞こえてくる。
大きく深呼吸すると、肺の中いっぱいに新鮮な空気が取り込まれた。
あまりにも清々しくて、私は頭を空っぽにしてしばらくのあいだ立ち尽くしていた。
「早速ですが、これに着替えてもらえますか」
気がつけば先生が隣に立っていた。
女将さんらしき人の姿はもうない。
彼は手に浴衣を持って私の横で笑みを浮かべている。
「……」
ちょっとぐらいゆっくりさせてくれてもいいのにと、心の中で溜め息を吐く。
またいやらしいことをされてしまうんだと思うと、素直にその浴衣を受け取ることもできない。
私はうつむいて渋ってみせる。
が、もちろん彼はこちらの気分なんて顧みない。
そんなことぐらいで予定を変えるつもりはさらさらないといった様子で浴衣を押し付けてくるのだった。
「ああ、下着は着けないで結構です。すぐにお風呂に入りますから」
「……」
仕方なく浴衣を受け取る。
先生には逆らえないのだ。
けれど、今日これからどうなってしまうのかと考えると、たまらなく不安になってくるのだった。
今ごろ、夫は家で一人留守番をしているというのに。
私は先生と一緒に混浴温泉に浸かりに行くのだ。